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特に近現代の作曲家たちにおいて、作品番号やピアノソナタ「第1番」のような番号をなぜつけない人が多いのか?個人的な見解ですが、作曲した時期を明らかにしておきさえすれば、作品番号等は特に意味を持たない、単に整理番号くらいのものだと言うことではないかと考えています。交響曲「第1番」とかピアノソナタ「第5番」というのも番号のつく順番は、作曲された順だったり(これだって複数の作品を同時進行して作ることは、現代においてもままあることなので、例えばベートーヴェンの交響曲第5番と第6番は同時進行だったと思いますし、初演時は第5番「田園」で、現在の第5番が第6番でした)出版された順だったり演奏された順だったり、それらが入り乱れて番号がつけられていたり(実際はほとんどそう)、作曲者自身も混乱していたり(多作の人ならなおさら)、とこれまたこの番号は、いろいろな事情でつけられるので、あくまでも便宜上のものだ、くらいに考えておくのが良いでしょう。
交響曲や協奏曲は演奏形態のジャンル分けです。大きなカテゴリとして、まず声楽曲と器楽曲があります。声楽曲は無伴奏が本来の基本ですが、器楽が伴奏することも多いです。特に楽器が発達したバロック以降は器楽伴奏がむしろ標準となります。 器楽曲は、声楽の入らない曲のことを指します。そのなかでオーケストラという様々な楽器群の合奏形態の曲を「管弦楽曲」、ソリスト(独奏者)がオーケストラと対等な関係で演奏される曲を「協奏曲」、おおむね10人以下の少人数で各奏者がソリストとして扱われるものは「室内楽曲」、一人で演奏するものは「独奏曲」と呼びます。ただしピアノ以外の「独奏曲」は、「無伴奏」と断り書きを入れます。なぜなら管弦打楽器は、通常ピアノ等によってサポートされることが多いからです(伴奏という言葉は、あまり適当ではないです。つい使ってしまいますが)。 「交響曲」と「管弦楽曲」の違いは、交響曲が多楽章構成であるのに対し、管弦楽曲が単一楽章であることです。ただし、これらのジャンル分けが定型化されたのは18世紀後半もかなり後の方ですので、例えばバッハの「管弦楽組曲」は多楽章構成でも「交響曲」ではありません。 バロック時代は、声楽曲(カンタータ)と器楽曲(ソナータ)という2つのカテゴリしか原則としてありませんでした。特に器楽曲は成立してまだ日が浅いので、名称も一定していません。形式や名称は、時代やジャンル、国によっても様々な過程があり一概にまとめて述べることは出来ません。もしここでそれを述べるとすると、とても煩雑になるので省略します。 音楽史的にはまず声楽曲、それも無伴奏の声楽曲が発達しました。器楽曲が台頭してくるのは、ヴァイオリンが現れた16世紀後半、ルネサンスも終わりの頃です。 さて、この名称が演奏形態を特定していない例を一つ挙げるなら、シンフォニアです。この言葉は、バッハの3声の対位法的技法を用いた鍵盤楽器独奏曲の名称として用いられていますが、当時シンフォニアは、イタリアオペラの序曲の意味としても使われていました。この序曲(イタリア風序曲と言います)が、後の交響曲の原型です。イタリア語では、シンフォニアは「交響曲」の意味です。 先程も述べましたが、このようなジャンル分けがある程度固まってきたのは18世紀後半です。ちょうどハイドンやモーツァルトが活躍していた時期です。 いわゆる古典派の時代に、これら演奏形態の違いによって、それぞれ名称を付けるようになったのでした。それまでは、シンフォニア(交響曲)の形態も一定しておらず、そもそも何を持って「交響曲」と呼ぶのか曖昧な時代です。モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」は、もともと祝祭セレナーデとして作曲された曲を楽章を減らして、そのまま流用したものです。 しかし古典派の器楽曲(ソナータ)にはある基準と言うか、概念があります。この基準はこれ以後の作曲家たちにとっても、まず念頭に置いて曲を作るべき基準として存在しています。 古典派ソナタの4つの概念とは、 1. 声楽を伴わない純器楽曲であること。 2. 標題を伴わない絶対音楽であること。 3. 多楽章構成であること。 4. 調性音楽であること。 この4つの条件を満たした器楽曲は、すべてソナタであると言うことが出来ます。ですから交響曲は「オーケストラのためのソナタ」であり、協奏曲は「独奏楽器とオーケストラのためのソナタ」であり、弦楽四重奏曲は「ヴァイオリン2本と、ヴィオラ、チェロ各1の計4人によるソナタ」です。 「標題音楽」とは、作曲者自身がつけた「田園」とか「幻想」とか「英雄の生涯」とか、曲の内容をテキストで説明したものを「標題」と言いますが、それに従って音楽が構成されているものです。曲の内容は言葉によって説明されているから、聴く人はそのようにこの曲を聴きなさい、と音楽の内容を規定しているのです。「幻想」だから、これは幻想として聴け、現実、リアルじゃないんだよ、と言うわけですね。ですから作曲者自身がつけたものでない題名、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」やモーツァルト交響曲第41番「ジュピター」は「標題」ではありません。 それに対して「絶対音楽」は、音楽外の要素を排除して、音楽そのものを表現しようと言う曲を指します。交響曲や協奏曲、弦楽四重奏曲、ヴァイオリンソナタやピアノソナタなどは、基本的にすべて「絶対音楽」です。 クラシック音楽の器楽曲には、この「標題音楽」と、標題のつかない音楽そのもので構成された「絶対音楽」の2種類があります。声楽曲は純粋なヴォカリーズの曲以外は全て「標題音楽」です。なぜなら歌詞と言うテキストがついているからです。 ただしここまでは基本的な原則論です。音楽は常にこれらの原則からはみ出ていきます。 例外の作品。 ベートーヴェン交響曲第6番「田園」。この曲には作曲者自身によって「田園」と言う「標題」がつけられています。 この曲は、基本は多楽章構成なので「交響曲」だけれど、「標題」によって曲の内容が規定されているので、「標題交響曲」と言います。この手の交響曲にはベルリオーズの「幻想交響曲」やリストの「ファウスト交響曲」、リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」「家庭交響曲」などがあります。 ベートーヴェン交響曲第9番 よく「合唱付き」と言われるように、この交響曲は声楽が導入されています。 声楽が導入されると言うことは、古典派ソナタの4つの概念のうち、1.と2.の二つの原則から外れているわけで(歌詞とは「標題」のヴァリエーションです)、ベートーヴェンはこれで2つ原則を破ったわけです。 なぜ破ったかは、ベートーヴェンに直接尋ねるしかないのですが(笑)、多分従来の枠組みでは、自らの音楽を表現しきれない、とベートーヴェンは最終的に考えたのでしょうね。 後期ロマン派になってくると、リストがピアノソナタロ短調を、単一楽章に複数の楽章の要素を盛り込んで作曲したことにより、3.の原則も破れます。この傾向はついにはマーラーの交響曲によって、楽章よりさらに上位の構成概念、Teil=部の導入によって楽章制の廃止(交響曲第5番、第8番「千人の交響曲」)を行ってソナタの多楽章構成という古典派からの原則は完全に破られることになります。 そして、20世紀に入るとヴェーベルンの交響曲によって4.の原則も破られます。 以後の交響曲やソナタなどは、完全に古典派の概念から外れたものになり、原点回帰とも言うべき、ただ「器楽曲」と言う意味においてのみ名称が機能することになります。 国民楽派の作曲家たちや北欧の音楽的に遅れた国々の作曲家たちにもシベリウス、ニールセンを代表として交響曲作曲家は何人かいますが、これらの作曲家を別として、交響曲やソナタは、器楽曲の名称として作曲家が付けるかぎりは、そうなのでしょうが、本質的な意味合いとして、古典的な交響曲の概念とは基本的に離れていると言うべきでしょう。後は個々の作曲家が、どのようなスタンスで器楽曲を作っているのか、標題等題名をつけているのか、それらを個々の楽曲において検討してみないといけないでしょう。 メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」や黛先生の「涅槃交響曲」、また現代の作曲家の作る交響曲(あるいはソナタ)は、標題を持っている場合は、その標題の暗示する内容(19世紀までとは「標題」も意味合いが変わってきました)プラス交響曲と言うジャンルが培ってきた音楽表現の精神を受け継いで、そこに新たな表現を創造するという部分を良く理解して、絶対音楽的に題名がつけられている時は、その曲の構造をまずどのようになっているか、解き明かしていく必要があります。 自分で書いていても難しいよ・・・
by ohsawa_akinori
| 2006-03-10 23:06
| 音楽
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